無題

泣いてもなんの解決にもならないと分かっているのに、泣いてしまう。仕事から帰る電車の中でも、母と同じ世代の、道行く見知らぬ人を見ても、このブログを書きながらでも、涙が止まらない。悲しいから、泣いているのだろうか。自分でもよく分からない。

死は果たして、泣くようなことなのだろうか。離ればなれになること、もう二度と会わないこと、自分を知ってくれている人が居なくなることは悲しい。話し相手が居なくなるのが寂しい。それは結局エゴなのだろうか。死んでもなお、故人に話し掛けると応えが返ってきそうな感じは、結局他己の形に替えた自己との対話の一種なのかな。

この世を離れて違うところに旅立つことは、喜び祝うことなのかもしれないとも思う。特定の信仰を私は持たないけれど、こういう時に宗教は頼りになるのだろうなぁ。

泣いた後はスッキリする。マスターベーションのような、解毒と快感と疲労感。悲しいと思いながら涙を我慢したり、涙を流すことすら忘れるほど感情を殺していると、首や喉や肩甲骨あたりが酷く詰まった感じになる。

泣こう。泣いてもいいや。電車でも、道端でも、人前でも。もう、隠し事をしたくないのだよ。どう思われようと、もう、いいや。

無題

思い残したこと
やっておきたいこと
連絡を取りたい人はいないの?

と訊いたら、

なんにもない。
もう十分。
みーちゃんと住むことが私の希望だった。
最後にみーちゃんと暮らせてよかった。
と言った。

「みーちゃんが良い人でよかった。
世の中には、親が死に目にあっても
会おうとしない子供がいる中で
みーちゃんはちゃんと
親を見捨てず大事にしてくれて
向き合ってくれる人で良かった。
大人の女性で立派に暮らして
賢くて安心した。」

いつもは意識が朦朧として
たどたどしくしゃべるのに
泣きじゃくる私を諭すように
明朗な発音で言った。

少しだけ、救われた。
私は思い残すことばかりだよ。
後悔しても、しきれない。
もっと、もっと、もっと。

「私は幸せ。ラッキーなのよ。
みーちゃんもラッキー。
若いうちに、独り身のうちに
親が居なくなってラッキーよ。
自分が老いてから、家族に気を遣いながら
老いた親の面倒見ないで済むんだもん。」

モノは考えようだな。
さすが、私の母だわ。

宏ちゃん

昨日職場の人に、初めて母のことを話した。
なんと声を掛けたらいいか、
とても戸惑っていたようだったが
なんでも相談して。
なんとでもなるんだから。
親は大事だから。
と、力強く言ってもらえて
ほんの少し心が軽くなった。

帰宅がいつもより遅くなった。
締まっているはずの玄関の鍵が開いていて
締め忘れたのかなと思いつつ
様子を見に母の部屋に入ると
深刻な面持ちの母がベッドに座っていた。

「さっきね、1時間前、
急にお腹が痛くなってね
動けないほどの、今までにない痛みで。
宏ちゃんに電話したらね
今から来るって」

ああ。
だから玄関のドアを開けておいたのか。
宏ちゃんは20年来内縁関係にある人だ。
我が家から電車で2時間の所から
ほぼ毎日、母の様子を見に来る。

夜中11時過ぎ、宏ちゃん到着。
とてもとても心配そうな顔をしていた。
宏ちゃんはいい人だけど
口臭も体臭も煙草の匂いが染み付いていて
私は少し苦手だ。

10分位話して様子を伺って
安心したのか
もしくは居たたまれなくなったのか
宏ちゃんは帰った。

母は強い痛み止めを飲んで
眠りについた。

母が居なくなった後のことを
色々と考える。
この家に住み続けるのか。
母のモノはどうしようか。
宏ちゃんとは繋がりを持ち続けるのか。

セブンイレブン

塩麹で作った鶏ハムと、完熟のアボカドとプチトマトと、自家製のマヨネーズと粒マスタードを塗った天然酵母胚芽パンでサンドイッチを作った。朝イチで、母のリクエストで作った。夜帰宅して「ごめんね。一口も食べられなかった」と言われた。うん。仕方ないね。無理しないで。

 

煮干しと昆布と鰹で取った出汁で、麺つゆを作り、鍋焼き素うどんを作った。食べてくれたけど、残した。謝られた。うん。仕方ないね。麺が硬かったんだね。

 

ねぇ。みーちゃん。セブンで冷やしぶっかけうどん買ってきて。あれなら食べられる。煮込めば柔らかくなるし、つゆが美味しい。

 

ねぇ。みーちゃん。セブンで、春巻きとコロッケとグリーンサラダ買ってきて。スーパーのお惣菜じゃなくて、セブンのがいい。セブンのなら食べられる。

 

 

セブンイレブン。すごいね。もう、セブンでいいね。セブン最高。近くて便利。いい気分。

無題

今朝9時ちょうど、
出勤前に
とあるクリニックに電話した

がん治療専門のクリニック
母が肌身離さず持ち読んでいる本の
著者が開業医のクリニック

保険はきかず全て自由診療
治らないがんは無いと言い切る

アロマセラピーやハーブ、東洋医学など
代替医療の知識は多少あるものの
こういう書籍を多数出版する医者に
私は懐疑的である
(問診表を郵送して、院長が目を通し
初診の日時を決める。とのこと。
必ずしも診て「もらえる」とは限らない点で
100%治りそうながんだけを診れば
「治らないがんは無い」といえるんじゃね?

そういう想いが
顔や態度に出ているのであろう
母に泣かれた。
「アンタは私が生きようとすることを
良く思っとらんのんじゃねぇ。
早う死ねばええと思うとるんじゃろう。
邪魔なんじゃね。
私が受けたい治療を受けさしてくれん。
まずは大学病院。まずは緩和ケア。言うて
私は、親身になって一緒に考えてくれる
先生と治したいんよ!
どうしたらええか分からん。
自分では調べる方法が分からんけ
アンタにお願いしとるのに
面倒くさそうに嫌な顔して…」

そんなつもりはなかった
調べてほしいことは
真っ先に調べて問い合わせて来たし
望むことは叶えてあげたい、と
休みの日も出勤前も帰宅後も全部
費やしていた
仕事中だって休憩中だって
片時も母が頭を離れることは、無い

でも。
本当は。
心の奥底で。
母の言う通り。

死んでほしいと思ってるんだと思う
早く、こんな状況が終わればいい
こんな辛い日々、いつ終わるのか知りたい
最後に母とまた暮らせて良かったなと
思うこともあるけれど
いつまで続くのか分からない状態は
とても、とても、こわい
自分の人生が台無しにされる
干渉され続けるのが本当に嫌だ

こんなことを考えながら
クリニックに電話した自分は
どんな顔をしていただろうか
藁にもすがる想いで
電話しているように見えたかな
何としても母を助けたいと必死に願う
僅かな奇跡に賭ける希望を持つ
娘の顔をしていただろうか

無題

9日火曜日、近所の大きな病院に行った
緩和ケア病棟があるとのことで
現状と今後のことについて
話を聞きに行った

端的にいうと、
そこでは主治医になってもらえず
外来で受診するのは可能だが
緊急搬送も
入院も
受け入れられない
とのことだった
(近隣の別の病院を教えてもらったが
果たして受け入れてもらえるかどうか

母は、医者に藁にもすがる思いで
食事療法について質問したのだが
「コレを食べれば治る
アレを控えればガンが消える。
っていう事は一切無い。
色んな本や情報が飛び交うが
結局は万遍なく
様々なモノを摂るのが一番。
食事療法を勧めるクリニックに
行くのならそれは自由ですが」
と医者に言われ
かなりショックを受けていた

自分の心の拠り所にしていた信条を
全くのまやかしだと貶されたような絶望感

「あぁ。私のしていたことは
間違っていたんですね…」
一切口も聞く耳も閉ざしてしまった
(家に帰ってきてから泣いていた
「食事療法が無駄だなんて!酷い!
信じていることをばっさり否定するなんて!
あんなの緩和ケアじゃない!
あんなホモみたいな医者の顔なんか
もう二度と見たくない!!」

気分が悪くなった、と母は席を外したため
私だけが医者の説明を聞いた

・胃の腫瘍が食べ物の通りを悪くしている
・吐き気・むかつきで食欲が無い
・胃から栄養を吸収出来ない
・他の臓器も弱っていく
・老衰のような形で全身が弱っていく
・老衰と違って、衰弱のペースは早い
・余命6ヶ月 か、もっと早く か

母は分かっていなかった
自分の身体がどういう状態なのか
今後どうなっていくのか
分からない、というか
受け入れたくない、というか

去年の秋に初めて診断が下った時も
「がんもどきよ。」と言った
(がんもどきって!おでんのタネかよ!
それなのに、
「ママ、3年前に吐血したし
転移してるだろうし
切っても手遅れだから…」とも言った

分かっていても
受け入れたくないよね
まだ生きていたいよね
まだやり残したことがあるなら
悔いばかりが残るよね

私も分かっているようで
分かっていない
受け止めきれない
先は長くないのだろうと
分かっていたつもりでも
医者に「6ヶ月」と言われ
心と身体がバラバラになるのを感じた

桜を一緒に見ることが
出来ないかもしれない
紅白も
紅葉も
見れないかもしれない

悔いしか残らない、今のところ
生きていてほしいと思うなら
手術の説得をすればよかった
具合が悪いって言っていた頃
早めの診察を勧めればよかった
温泉旅行したいって言った時
プレゼントしてあげればよかった
美味しいものもっと食べればよかった
孫の顔を見せてあげたかった
あの時、生まれて来なければ
よかったなんて酷いことを
言わなければよかった